吉田松陰学

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【10月24日】吉田松陰先生命日『歴史現地教育学』 ~終焉の地(十思公園)⇒回向院⇒松陰神社~

2009/10/27
辻拓弥

【松陰先生ゆかりの地巡り】
●十思公園(松陰先生終焉の地)●
・黙とうの際の「青い空」
 →150年前も同じ空だったのかなと感じた。
  この青々とした空を見て、“最後の唄"を吟じなら 
 “至誠を生き抜いた達成感"を思ったのかもしれない。
・黙とうの際、感じた・思ったこと
 ⇒自分は松陰先生に顔向けできる生き方をしてるか?
  答えは"ノー"だ。
  "自分の至誠感"がまだないのだ…
  命を賭してまで、相手に伝えたいことが自分にあるのだろうか…

●回向院●
・松陰先生より若くして亡くなった志士、橋本佐内のお墓もある
 お寺。
・多数ある松陰先生のお墓
 ⇒偉業を成し、多くの人々を“感化"した人物は多くのお墓がある。
  「尊敬する人のお墓を置きたい。」それは私も考えてしまう“願い"
  だろう。
  世代を超えて“思われ続ける"。本物の偉人の条件を肌で感じた。
●松陰神社●
・松下村塾のレプリカ
 →改めて“勉強部屋の質素さ"を感じた。
  “学ぶ姿勢"と“導く先生・師"があれば場所は関係ない。

 2、“先生よりお墓より小さい"弟子のお墓
  →野村靖(入江九一の弟)他、多くの弟子の墓が
   松陰先生のお墓を囲うようにあった。
   このことから、本当に尊敬され慕われていたのだと感じた。
  →お弟子さんのお墓は、先生のお墓より“必ず小さかった。"
   「自分のお墓は、絶対先生のお墓より小さく作れ。」といった。
   “先生を差し置いて…"という弟子としての謙虚さが込められている。
以上。
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竹本晃規

今日は、都内にある吉田松陰先生ゆかりの地を廻りました。
まず、最初は、十思公園です。ここは、吉田松陰先生が処刑された場所です。10時に鐘が鳴り、処刑されました。
一人の人の処刑された地が今は一つの公園になっており、その死を静かに物語っていることに関心を持ちました。
次は、南千住にある吉田松陰先生の墓があるところに行きました。ここでは、松陰先生は、「罪人」として扱われました。海外に出たりすることは、今では気軽にできるようになったが、当時は、鎖国をしていたため、海外に行ったり脱藩しただけでも処刑されてしまう時代でした。恐ろしく感じました。
最後は、世田谷区にある松陰神社です。ここでも松陰先生が大きく祭られていました。ここにも、松陰先生の墓がありました。また、松下村塾を模した建物もありました。狭い講義室で、何十人もの人が講義を聞いていました。
今日は、一人の偉い人をテーマに扱い、本人にゆかりがある地に行ってきました。気付いたことは、いろいろな場所が静かに著名人を静かに後世に伝えることの素晴らしさです。
ありがとうございました。
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松本由真

☆十思公園
・静かな場所。松陰先生の心も静かだったのだろうか。それとも、わくわくしながら死んだのだろうか。
・どんなに立派な人も終わりがある。だからこそ、精一杯生きるし、未来に残そうとする。今の時代は「死」が遠ざかっている。
・失敗ばかりだった松陰先生。留魂録を遺し、弟子たちが倒幕をしたことが、唯一の、大きな成功だった。

☆回向院
・松陰先生のお墓は、多くの中のひとつのように感じた。 弟子たちが怒るのも納得。

☆松陰神社
・駅を降りて、幕末祭りの横断幕があり、町の人の松陰先生への親しみを感じた。
・回向院から電車で1時間。当時はどのくらいかかったのだろうか。回向院から松陰先生の遺骨を運ぶ弟子たちの必死さ、衝動に駆られずにはいられなかった気持ちが伝わってくる。
・松下村塾のレプリカ。
 想像以上に狭かった。先生と門下生は接近戦で講義をでざるをえない。机を叩くと、部屋が震えただろう。あの小さな部屋から日本を変えた。その偉大さ。遠大さ。を感じた。


中村寛

本日は松陰先生命日で終焉の地を巡りました。処刑された時間に十思公園で黙とうしながら自分だったら絶対に落ち着き払ってはいられないと思い、本当に志は弟子達に託したからやり残したことはなかったんだろうと感じました。
実際に先生の意志は直接の弟子だけでなく、ベンチャー大學も大きな影響を受けており今の充実した生活があるのもそのお陰であることに感謝しています。お墓が回向院、松陰神社、萩と3ヶ所にあることからも人々に与えた影響の大きさが伺えました。
『吉田松陰先生、没後150周年』
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河田修一

 10月27日の今日は、吉田松陰先生の命日であり、今年は没後150周年に当たる。安政6年(1859)10月27日、わが国の将来を真剣に考え、身をもって実行して
いった松陰先生は、現在の十思公園の地(昔の刑場跡地)で終焉を迎えた。齢三十歳で
あった。

十思公園
⇒昔の刑場跡地。午前10時頃に、鐘の合図と共に刑が執行されたためにその名がついた。その鐘は今でも公園に残っている。150年前の今日、午前10時ごろの鐘の合図と共に、松陰先生の処刑は執行された。
  本日の天候は晴天、透き通るような青空に、爽やかな風が吹いていた。心までも、晴れやかになる天候であった。150年前の今日この瞬間も、同じような天候だったのだろうと感じた。松陰先生の心も、今日の天候のように晴れ晴れとした気持ちで、当日の朝を迎えたのだろう。

影響力
⇒松陰先生の思想は、多くの人々に影響を与えた。高い志を常に持っていたこと、溢れんばかりの情熱を持ち続けていたことが根本にあるのだろう。そして何よりも松陰先生が自ら学問し、行動することを実践していったからこそ、共に学んだ弟子たちは多くの影響を受け、のちの世まで語り継がれていったのだろう。

価値のある死
⇒人はいつか、必ず死ぬ時が来る。「男児たるもの、どう生き、どう死んだらよいのか」という問いに、松陰先生は「死んで志が残るのであれば、死ねば良い。悔いが残るのであれば、生きてそれをやればよい。」と答えた。その言葉通り、松陰先生の志は今も残り、いき続けている。松陰先生の死は、大きな価値のあるものだったのではないかと感じた。

魂を残す
⇒松陰先生は、死ぬ間際に「留魂録」という遺書を残した。自分が死んでも、国を思う気持ちを永久に残したいと願って書いたものだ。松陰先生は、国をもっと良い方向へ導いていきたいという思いを持ち続けていた。遺書と共に、魂は残り、弟子たちに受け継がれていった。今日の日本には、自分の命と引き換えにしてまで国を良くしていこうという人は、ほとんどいないのではないかと感じた。松陰先生の魂を、感じて欲しいものである。

回向院
⇒昔の刑場跡地。無縁仏や罪を犯した方々の墓が多くある。松陰先生のご遺体は、刑の執行後はここに収められていた。

松陰神社
⇒松陰先生の死を知った弟子たちが、松陰先生の遺体を掘り起こし、現在の松陰神社の地にひっそりと祭った。弟子たちに助けられ、この地で供養された松陰先生は、涙が出るほど嬉しかったのではないかと感じた。弟子たちは、自分が死んだ後も松陰先生のそばにいたいと、皆が松陰先生の墓の近くに自分の墓を立てた。こんなにも愛され続けた人はいないのではないかと思う。
  松陰先生は、短い生涯で多くの有能の志士を得た。その多くの人たちとの絆を得たことが、一番の幸せであったのではないかと感じた。

草奔崛起
⇒松陰先生は、身分に関わりなく、草むらのようなところにいる人々が立ち上がって、体制を変えていくべきだと述べている。
  日本ベンチャー大學は雑草集団。踏まれても、へこたれず何度も立ち上がって、強くなっていく。辛い体験をしたぶん、強くなれる。もっと伸びて、成長することができる。雑草魂の精神を忘れずに、日本を変える人材になることを目標としていきます。
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小林大哲

松陰先生命日体験実習
十思公園
→松陰先生終焉の地として碑が置かれている。元々は処刑場があった場所。午前十時に鐘が鳴り処刑が執行されたという。
私達は午前十時にこの場所で松陰先生に黙祷を捧げた。松陰先生が処刑の間際に何を思ったのか追体験するためだ。
私は松陰先生は死を恐れてはいなかったと思う。松陰先生は常に自分に出来ることを実際に実行してきた人だ。心残りとうものはなかったのではないか。だから、あれをやっておけばよかったという類の後悔はなかったのではないか。
心残りがない人間は死を恐れない。恐れないというよりは死を受け入れられるといったほうがあっているかもしれない。
加えて松陰先生は自分の死にも意味を見出していた。自分の死をもって自分の志を達成できるという思いがあったからこそ最後まで取り乱さず死を受け入れられたのではないか。
志を高くもっていれば恐怖という感情を超越できるということを学ばせてもらった。

松陰神社
→松陰先生をご祭神として奉る神社。松陰先生のご遺体が葬られたお墓がある。まわりには松陰先生の門下生の墓もあり松陰先生の人徳の厚さが偲ばれた。
松陰先生は孤独な人ではなかったかと私は考えていた。松陰先生の志の高さは群を抜いていた。そのため、共に学んだ一部の門下生が着いていけないと松陰先生から遠ざかっていったという話がある。
しかし、松陰先生のお墓の周りを囲むように門下生のお墓が立てられている様子を見て、松陰先生の志を理解し着いていこうと思った人達がこんなにもいたのだなと感動した。
人間は色々な考え方を持った人がいる。中には自分の志を理解してくれない人もいる。それでも自分の志を称え続けることで着いてきてくれる人もいるのだと改めて感じることができた。
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後藤虎南

松陰先生命日
本日は松陰先生の処刑跡地である十思公園に9時半に集合処刑された時刻の10時に黙祷しました。
同じ時刻の百五十年前、松陰先生はそのとき何を思い、最後の瞬間を迎えられたのでしょうか?
同じ場所同じ時刻で百五十年前を振り返り、心境を振り返りました。
後生に松陰先生が信じたように弟子たちは維新を駆け巡りました。
しかしあの当時の弟子達は山口の一介の人でしかない。
その先が見えない中あの堂々とした境地を迎える凄さは計り知ることは出来ませんでした。

あの場に立川気付いたのは、国を誰よりも想い誰よりも弟子達を信じていたからこそ、出来たことではないだろうか。

最後に松陰神社に行き百五十年年たち
今の世を松陰先生はどのように思っているのでしょうかと感じた1日でした。

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