平成24年(2012)【7月21日(土)】 『歴史散策』 (徳富兄弟記念館、徳富蘇峰・蘆花についてのプレゼン)
①今日の議事録
・ラジオ体操、環境整備、朝礼
・本荘地区の公園の草取り、花植え
・新聞アウトプット
・徳富記念館 見学
・プレゼン大会
・終礼
・課外:お好み焼きパーティー
②本日の気づき
環境整備
・この部分を徹底的にワックスをかけると範囲を指定して、時間いっぱいする。
→だいたいの要領でかけても計画性がなく、
わからなくなってしまい、適当になってしまう。
ここと決めて集中して取り組むことが大切。
本庄市区の草むしり、花植え
・自分たちの地区は自分たちで守る
→公園で草が伸びてた。
10名ほど地域の方が集まってその公園を守っている。
そこでコミュニティも深まる。
お弁当やガム、お茶など下さり、人の優しさ、温かさを感じることができた。
・近くに保育園があり、よく利用するということなので
本日の花の名前や木の種類を表記する立て札がほしいとのこと。
→ただの公園というスペースにいろいろな発見ができるようになりたい。
公園を自分たちでいいものにしたいという気持ちがアディアを出す。
【徳富記念館にて】
・人によって話し方、伝える内容は違うが、
自分の知識と重ねていくことで質問ができる。
→事前に調べて行ったことと、チームでなにをプレゼンするか
目的があったため、話の内容もより理解でき、おもしろかった。
【徳富蘇峰】
・徳富蘇峰は熊本出身のジャーナリストとして国民新聞を創設した人。
徳富蘇峰は裕福な家庭で育ち、父の一敬は横井小楠の一番弟子だった。
ジェーンズ邸で8歳のときに学ぶもレベルの高さに辞めるが、
4年後の12歳で再び学ぶ。
ジェーンズ邸がなくなった後も洋学校で学ぶ。
そして同志社で学ぶ。
新島襄の人徳にひかれて入学するも、卒業1か月前に退学する。
その後、国民新聞という当時四大新聞の一つとされる新聞を発行。
文化や寄稿など今まで堅い新聞を読む人が面白いように工夫した。
海外を2年間も観て回ったため、日清戦争で日本が勝ったにも関わらず、
三国干渉で領土を返還しなければならなかったこと怒り、
日本の国力を強化しなければならないとどんどん国権主義へとなる。
内閣にも影響を与え、「宣戦の大諮」の原稿も書いた。
それによって、A級戦犯になるが81歳と高齢だったため、自宅待機となり、
1年後、戦犯を解かれ、執筆などを行い95歳で亡くなった。
知れば知るほど、徳富蘇峰という人物は先を読んでいたのか分かる。
【徳富蘆花】
蘇峰の弟だったため、兄ほど大切に育てられていなかった。
いつも兄の跡をいく自分に悔んでいた。
蘆花も大江義塾で生徒に教える。
その後は東京で農業をしながら、小説などを書く。
小説「不如帰(ほととぎす)」はベストセラーに。
兄とは違う道を行きたいと思う部分からか社会主義の道にいく。
トルストイにもアポなしで会いに行くなど、行動力があった。
兄とは絶縁状態にあった蘆花も亡くなる前日に兄の蘇峰と和解した。
・育った環境や出会った人物によって考えや思いも変わるが、
常に自ら学ぶという姿勢が大事。
【5分でプレゼン】
・結論をもっていくまでの話の順序だてをしっかりすることが必要。
→場数と頭を整理して聴くことが大事。
③実行すること
・毎日の気づきを1日1分間で言えるように練習する。
・東京の世田谷に恒春園という徳富蘆花の旧邸宅に行く。
④全体の感想
前回に引き続き、望月さんが聴講に来て下さっていい刺激を頂けた。
工藤さんと久しぶりに新聞アウトプットなどができ、面白かった。
知っている知識が繋がると面白いし、それを知っているだけではなく、
人に伝えていくことが大事なんだと改めて感じた。
From:内山瑛美(熊本県立大学4年)@JVU熊本校1期生
■講義の気づき
・発表の声はラ音で、電話でお客様と話すようなイメージ
・発表の時、体が揺れる、頭を触っていた、目線が悪い
→自分の発表の姿をビデオで見ることで直した方が良い点がいくつも見えた。
アウトプットの際に意識して直していく。
■実行する事
・アウトプットの際の姿勢を意識
■全体の感想
本日は午前中、本荘地区の町内の方と花の苗を植えました。
花を植えるのは小学生以来でとても新鮮な気持ちで作業が出来ました。
町内の方にはお弁当やお茶まで用意して頂き、とてもよくして頂きました。
これは営業活動の一環だそうで、
地域の方とのつながりが重要であることを学びました。
午後は以前訪れた徳富記念館で副館長様からのお話しを伺いました。
どんな質問に対しても丁寧にお答え頂き、徳富家についての理解がより深まりました。
最後にプレゼンを行いビデオで録画したものをチェックすることで課題が見えました。
講義後、社員さんのお宅で飲み会をさせて頂きました。
とても楽しい時間で、改めてこの会社は風通しが良いなと感じました。
企画して頂いた今村さん、また場所を提供して頂いた社員の方に感謝いたします。
From:森田耕司(北九州市立大学大学院修士1年)@JVU熊本校1期生
平成24年7月14日(土) 『歴史散策事前勉強会』 『アウトプット力を高めよう』
平成24年7月7日(土) 「歴史・文化・伝統学」 『後藤是山記念館、水前寺成趣園、ジェーンズ邸』
2012/07/07 19:42:18
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①今日の議事録
・ラジオ体操、環境整備、朝礼
・新聞アウトプット
・歴史散策(後藤是山記念館、水前寺成趣園、ジェーンズ邸)
・終礼
②講義の気づき
・福岡の祇園山笠まつりが今年も開催され、今年で771回目とのこと。
また、開催中はきゅうりを参加者は食べない習慣がある。
→祭とは代々受け継がれ、様々な意味を込めて地域おこしのように開催されている。
<後藤是山記念館>
・後藤是山の生家は昭和2年の建物と思えないほど綺麗で、
庭には徳富蘇峰から贈られたイチョウなど草木が綺麗に咲き、手入れされていた。
→保存も管理も行き届いていて日本家屋は涼しかった。
それほど熊本に是生は影響を与えゆかりがある人物。
・大分出身だが、熊本の新聞記者で25年勤め、退職後も熊本に残り俳句や詠み、我流を貫いた。
→中央(東京)との関わりをあまり持たなかった。よってあまり有名ではない。とにかく一人わが道を行く。
・与謝晶子夫妻をはじめ多くの方を熊本に来た際に案内した。
竪山南風とは有名になる前から才能を見出し、プッシュしていた。
→人と人との交流を大切にしていた。
・この記念館は是山先生が昭和61年まで生きていたため、
レプリカではなく本物の展示物が数多く残っていた。
<水前寺成趣園>
・東海道五十三次を表現したように、
葛飾北斎の作品によくある富士山があり綺麗で、落ち着いた場所。
・細川忠利公、細川藤孝公の銅像があり、忠利公は公園の創設者として、
そして宮本武蔵を熊本に招き客分として余生を熊本で送らせた。
武蔵の五輪の書などにより肥後の武道は飛躍した。
→剣道も熊本は強いためこのなごりが残っているのかもしれない。
・細川藤孝公は肥後家初代であり、
和歌や能楽も一流で文武両道に優れた人であった。
→200年続いた江戸幕府の礎を築いた。
<ジェーンズ邸>
・ジェーンズは熊本にも薩長に負けないくらいの学力をつけ、熊本から政治家に
なるものを輩出し、日本を担う人物になってほしいという目標を持って来熊された。
・ジェーンズの思いと異なり、キリスト教の布教を宣誓し、
当時はキリスト教を認めていなかったこともあり、洋学校は5年で閉校になった。
・洋学校は日本で初の男女共学で学んだ施設であり、
ジェーンズは男性に対して自分を育ててくれた
母親が自分より能力が劣っているかと問い、
男女に能力の差がないことを教えた。
・洋学校が閉校された後は現在の同志社に編入し、
教育、宗教などのリーダーとして多くの学生が誕生した。
・佐野常民
→西南戦争で敵味方関係なく救護する博愛社を説立、
現在の日本赤十字社の創設者である。
ジェーンズ邸の二階でこの博愛社の設立を願い出た場所である。
③全体の感想
本日の歴史散策でどんどん熊本の偉人の繋がりが分かってきました。
今回訪れた3か所はすべて初めてで、
それぞれの場所で館長のお話を聞かせて頂くことができました。
自分で情報を掴みに行き、現地の空気を感じ、
これからも感性を磨いていきます。
From:内山瑛美(熊本県立大学4年)@JVU熊本校1期生
・後藤是山の文化人ネットワーク
→与謝野晶子とは短歌の師弟関係。
与謝野夫妻を天草や阿蘇を案内うることにより交流していた。
交流ネットワークの広さに驚いた
・参拝の仕方
→1.鳥居をくぐる前に一礼、左側を通る
2.真中は神様の通り道と言われており通らないようにする
3.手水舎で手と口を清める。口は手水舎につけない、
4.2礼2拍手の前に軽く会釈。手を合わせる時は右手を少し下にする
5.お願いではなく誓いをする、名前と住所を言う。
神様に感謝しありがとうございますという。
・ジェーンズ邸の授業はすべて英語、ついてこれなければ退学
→明治4年に開設されたにもかかわらず、
こんなにも学ぶ意識が強い人が居たことに驚いた。
・日本初の男女共学
→女性が学んでいたことで、男性が嫌な顔をしたり、離れて授業を受けていた。
そのことを気にしない図太さと学ぶ意欲を見習いたい。
本日は新聞アウトプット後、後藤是山記念館、水前寺公園、
ジェーンズ邸を散策しました。
天気にも恵まれ、気持ちよく散策することができました。
またベン大東京校事務局の田中さんともご一緒させて頂き、
色々とお話を伺えて楽しく学ぶことが出来ました。
本日の歴史散策で熊本の良い所を再発見できましたし、ジェーンズ邸の館長様が
小学5年時の担任の先生だというハプニングもあり、世の中は狭いと感じました。
From:森田耕司(北九州市立大学大学院修士1年)@JVU熊本校1期生
・稲荷神社や出水神社、銅像などがあった。
→由来が不明だったり、初めて聞く人もおられたり、
勉強不足だなと思ったし、現地に来たから気づけたこと。
あと、華族初の戦死者の方の名前を度忘れし、
このキーワードでは名前が出ず、調べられない。
メモしておかなければ。
・見て回って本当に綺麗に整備されてるなと感じた。
芝生もしっかり刈ってあり、水も澄んでいた。
ごみも(記憶している限り)見当たらなかった。
→きめ細やかな整備の結果だなと感じた。
隠れた苦労と努力があるんだろうな。
実際水辺の植木を綺麗に刈られていた。
・ジェーンズ邸で、授業はすべて英語で行い、優秀な子以外は
すべて退学という厳しい教育を10~15歳の子供が受けていた。
→ 自分の小中学生時代は退学なんて考える必要もなかったし、
高校大学でも、そうそうあることではなかった。
教育水準がいまと違いすぎるなと感じたし、
それでも食いついていく意識の高い子どもがいたんだなと感心。
一番遠くは岩手から来られていたとのこと。
自分も負けてられない。
・初の男女共学学校。
→5年程度しかなかったとはいえすごいこと。
内部から反発もあったようだが、それをなだめて続けたことはすごい。
そして、女性陣は必死にされていたようで刺激になっていたのかもと感じる。
・日赤発祥の地
→日赤が日本では熊本生まれで、西南戦争が元だったことは知っていたが、
ジェーンズ邸にできたことは知らなかった。
どちらの軍にも平等に治療を施したとのことだが、反発もあったはず。
そこをはねのけての活動は並大抵ではできないだろう。
それでもできることが"志"なのかなと感じる。
・当時日本ではあまりなかったパンや牛乳、牛肉を食べたりした。
→このほか暖炉など当時としては珍しいものがあり、
見学者もたくさんいたとのこと。
新しい風を入れるという点で大きな意味があったのかなと感じる。
パンなど麦を石臼ですって小麦粉を手に入れていたとのこと。
・海外から野菜の種を入れ、近所にも配っていた。
→自分だけではなく周りにも気を使っていたとのことか。
これとパン、牛乳、牛肉などで、
周辺の栄養状態は飛躍的に回復していったとのこと。
すごいなと感じる。
全体の感想
ジェーンズ邸で、意識の高い学生の雰囲気を少しだけだが感じた。
英語のわからない学生と、日本語のわからない先生との授業で、
大学では学ぶことがない、と言い切れるほどの勉強。
今の自分とは比べ物にならない。
From:牛島知之(熊本県立大学4年) @JVU熊本校1期生